rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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久々に色々なことが一段落して、ミサ…に遅刻し、ロザリオに。

第4玄義の先唱をしながら、不思議な感覚に襲われた。

Charlsの祈りを聞いてからいつも、単なる「念仏」にならないようにと心を砕いていたつもりなのだけれど。

アフガンに行く。そのことを思いながら、「これでよかったのだろうか」と思いながら聖母を見つめ、祈り続けていた。そのときに、突然に襲った、あの感覚。

あれはいったい、何だったのだろう。
求道者として自分を位置づけるようになってから、もう16年になる。いろいろな事情で、主はここまで私を焼き尽くすために準備され続けてきている。

…さて、どんな風に私は焼き尽くされるのだろう。

その間の私の状況をご存知な神父様は数名おられるけれども、どういう訳か、霊的同伴としてのご縁がない。真生会館の神父様とお話をしたこともある。彼は、私に洗礼を何回かの分かち合いをしたらすぐにでも授けたい、とおっしゃってくださった。吉祥寺教会のとある神父様は、自分は霊的同伴になるには若い、とおっしゃった。イギリス時代からご存知の神父様とは、なぜか連絡が途絶えがちだったりする(私のイギリス時代をご存知ということもあって、お話が一番しやすいというのはあるのだけれども)。

そういう意味では「師」としての霊的同伴になかなか巡り合えない。それはおそらく、「時」ではないからなのではないかな。と思ったりもする。

「主のみで足りる」

……これを地で行けていたらいいのだけれども。と、思ったりも。
Hail, Mary full of grace, the Lord is with thee.
Blessed are thou amongst women, and blessed is the fruit of thy womb Jesus. Holy Mary, mother of God, pray for us sinners now and at the hour of our death.

毎週日曜、イグナチオにての英語ミサ終了後に聖母像前でロザリオを全員で1環祈る。常連であることもあって、なぜか先唱をすることがけっこうある。大体第2・3玄義のあたり。

つい先日のミサで、上智の留学生が加わった。彼の先唱での玄義の間中、とても心が穏やかになっているのをずっと感じていた。不思議な感覚。

なんでだろう…と思っていたのだけれども。

何回目かのHail, Maryの時にふと気づいた。彼の祈りが口祷になっていないのだ。ということ。語りかけ、心を込め、1回1回に万感の思いを込めて祈りをささげている、ということ。

その祈りに、思わず目を閉じて聞き入ってしまっていた。

それ以来、自分の口祷のときの気持ちの持ち方が全然違うことにふと気づいた。

アビラの大聖テレジアが口祷について、完徳への道で説いている。言葉をただ口にするだけになっていないか、と。念祷が伴わなければ、それは祈りにはならないのだと。

それを教えてくれたチャールズに、感謝。
ここに来て初めて自分の非力さ、無力さをさらされる。

それであっても気が狂わんばかりのあせりが来ないのはなぜだろうか。

主よ、それは私があなたにすべてを委ねてみようと
ようやくにして思い至ったからではないのだろうか。

Ahmedの祈ろうよ、をきっかけに私の中の何かが変わっている。
祈りを失った私に、その一言が祈りを取り戻す。

すべては主に帰すものであり、
すべて良いものはあなたから出るもの。
なのにその恵みがあるときには私たちはそれに気づかず
おごり高ぶる。

だからそれが取り去られたときに非常に弱くなる。

主よ。私は今こんな状態です。
でも私は、あなたに信頼を置き、
あなたが愛する自分を信じ
あなたが私に与えてくださったこの能力を信じてみようと思います。

主よ、正直に言えばいまはとっても極限状態です。

それでもあなたは、私にこの夢を捨てるようにとはおっしゃらない。

ならば私はこの道を行くのみなのです。

私の召しだし。召命は、あなただけがご存知です。
そして日々私はこの生を生きることに召しだされています。
主よ、私を日々強め、愛してください。
あなたの愛のうちに、私は生き、
あなたの愛のうちに、私は己を燃やしましょう。

主よ、あなたに再び向かわせてくれた彼の言葉を通して
あなたは私に語られたのですね。

「私から離れるな。」と。

日々の生活に召しだされているように
あなたは確実に私を召命へと導いてくださる。
それがどんな道であれ。

苦しいときの神頼み、と人は言うでしょう。

いいぇ、主よ、それでもかまいません。
だって、私は弱いのですから。
だからあなたのところから離れてしまって
そしてまたこうして戻ってきたのですから。

私はあなたの元に戻ってきました。
わが主、わが神。
自分の小ささに打ちひしがれて、あなたの愛を請いに。

でも主よ、私は顔を上げて、雲の向こうを見つめて
また歌いましょう。
そこに大きな太陽が燃え盛っていることを信じて。

Bonum est confidere in Domino. Bonum sperare in Domino.

主よ。あなたに信頼し、あなたが愛してくださる私を信じ、
そしてあなたが良かれと思って授けてくださった、
私のこの能力を信じます。

なぜなら、そのすべては
あなたから出たものだからです。

日本に再びすむようになって3ヶ月が経とうとしている。その間にいろいろと考えることがあった。それはまたおいおい。

祈り。

これを自分から取り上げられてしまったのは、とても辛かった。

祈りというのは、常に自分のそばにあるものだと思っていたし、当然のものだと思っていた。けれどアビラの大聖テレジアはこういった。

「祈りとは恵み。与えられるもの。」

その意味がまったく私には理解できなかった。

突然それが失われたことをはっきりと思い知らされた時のことは、忘れるべくもない。

あまりにも「恵み」を当たり前のものとして受け入れていたからなのだと思う。祈れる、ということは神に自分が向き合ってきているということ。主に私が向き合い、対話し合い、その愛を受け入れ、求め、そして信じ続けてきたということに他ならない。感謝してきただろうか。

祈りとは、神に向ける単純なまなざし、
その心からの叫び。

私は、主に向き合ってきただろうか。

Ahmedと話していたときのこと。

私は「集中する」ことに軽い障害がある。意志力でどうにかなる、というものではなくて、これと向き合ってようやく数ヶ月、これに気づいて10年以上になる。認めたくなかったけれど、自分の抱える問題の一部に、これがあることを、認めざるを得なくなった。今まで、自分をいすに紐で縛りつけたりしたこともある。受験期には本当にそうやってやってきたりもした。その話を彼にしたときのこと。彼は本当にぽん、といった。

「祈ろうよ」

私と彼は宗教が違う。名前で分かるだろうが彼はムスリムで、私はカトリック。けれど彼は「アラーに祈れ」とは言わなかった。「祈ろうよ」といったのだ。

「祈ろうよ。そして、謝って、支えてください、と願うんだ。」

と。彼の言わんとすることは、そのシンプルな言葉で足りた。「祈ろうよ」。そのシンプルさ故に、すとん、と私の心に落ちた。

弱さを認め、それを受け入れ、それをも含めて主に委託する。そしてそれを越える強さを願う。聖霊が私の中で自由に働くように、己を明け渡す(なるべくね(笑))。

そして、それから、私の机の上には、ロザリオが復活した。
辛いとき。目を閉じる。蝋燭を灯して、主に向かい合う。己を見つめ、ともに闘ってくださる、共に喜んでくださる方の存在を感じて、その愛を感じて。

祈り、という息吹。
弱いという恵み。
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