rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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節目節目に、目に見える形で、St. Therese de l'enfant Jesusが現れる。

Sayakaを連れて一緒に行ったTaize Massの、Notre Damme de Paris (in London)。あの時、あそこに「行かなければいけない」と、何かが強く働いた。あそこに入った時。彼女は聖堂に向かって後ろの左側にいた。いつも、Farm St. Churchで、いる場所に。

信じられないけれど、あの時点で私が、いっぱいいっぱいで辛かった私が、彼女が私のところに駆け込んでくるのを受け入れているキャパシティがあったこと。私ひとりの力では、できなかった彼女に対する姿勢、彼女だけではなくて、あの時に数人の友達が、あの状態の私のところに「助けて」というSOSを求めて来ていたこと。そして、私が、考えることもなく私にしてはありえないくらいに「適切な」手伝いができていたこと。

あの時に、その瞬間に私の「試練」に光が与えられた。あの日の朗読はヨブ記。

ミサを受けながら、Notre Dammeの像を見上げた。風の中、地球の上に立っている幼子イエスを支えている母マリアの像。

そして、つい最近、自分の家の近くに、Catholic Churchがあることを知った。St. Anselms and St. Cecilia教会。近いから、Green Parkまで行く必要がない、と思いながらも、テレーズに会いにいけないのではないか、と内心残念に思っていた。

近いほど遅刻する、遠くても遅刻する私(汗)ミサに与り、約束の時間にまだ時間があるから、と暫くそこで祈ってから、ふと後ろを見る。

…彼女がそこにいた。

「バラの雨」を降らせながらそこにいた。



驚いた。


やっぱり聖堂から向かって左側に。あなたはそこにいた。そして、Farm St. Churchで会うあなたは、高い台の上に立って、私はあなたの足に触れることしかできなかった。けれど、あの教会では、私はあなたを抱きしめることができる!

いつでも、私の行くところにはどこにでも、あなたがいる。それを、こんなに身を持って感じたことはない。あの本当に苦しかった日に、あなたが私の上にバラの雨を降らせて以来、あなたは私に約束したとおりにいつでも共にいてくださる。私を力づけるために。

そして。


その教会にあった聖母は、ルルドでもファティマでもなく、Notre Dammeだった。

あなたは私があなたの助けを必要とするだろうという状況に陥る時、必ずその前に現れて、「何があっても恐れることはないのですよ、私の道についていらっしゃい」と、私を先導する。だから変化が怖くない。…もっとも抗う暇もなく引っ張られていくのだけれども。でも、その変化が望まれた変化であるとき、あなたは私を導く。

どんなに頑張っても私は自分自身でできなかったことを、あなたはたったそれだけで可能にする。Jesus,あなたは私がそれに戸惑い、それに恐れることを知っているからこそ彼女を必ず私のところに来させてくださる。私がどんなに頑張っても自分の中に起こせなかった変化を、あなたはたった1瞬で可能にする。

主よ、感謝します。こうして私に道を示し、こうして私を引き寄せ、こうして私に微笑をあたえ、導いてくださるあなたに。

何かのためでなく。今、私を生かすのは、あなたと共にあるこの時間。彼女の試練を私のものとし、少しずつ、少しずつ与えてくださるあなたに。私は私という存在でUniqueでありながら、この道を生きていることに。

テレーズ、あなたが私と共にいる。それはなんと大きな慰めでしょうか。
灰の水曜日。今日からLentが始まる。

Good Fridayに合わせてNovenaを始めて10日あまり。待ち望んでいたLent。私はこの時期の黙想がとても好き。

主の苦しみに同化したい。主が受けた辱めを、共に忍びたい。その十字架のもとに留まって、その傷から滴るおん血の一滴も地に落とすのではなく、この手に受け止めて、飲ませたい。

その苦しみを耐えた愛。そして他の人のように、ゲツセマネで苦しみながら、最後に「フィアット」を仰ったその信頼。従順じゃなくて、信頼。それが「必要なのだ」と、ご存知だったからこそ、the death freely accepted。

アビラの聖テレジアは、その著書の中で言う。「その時代に生きていたならば、私もあの方のみ顔から、目をそむけなかっただろう、などと言わないでください。今でもあなたを愛情のまなざしでずっと見ていらっしゃる方に目を注がずに、他のものに目を注ぎ、ちらりと彼のみ顔を見ることもなさらない方が、どうしてその時代に、マグダレナと共に十字架のおんもとに留まろうなどとなさるでしょうか。」と。

できるだけ度々、そのおん方の方に、目線を向けなさい、と彼女は言う。そしてその愛のまなざしに気づきなさい、と。

主よ、あなたの愛のまなざしのうちの留まり、あなたの愛を借りて愛することができますように。できるならば、喜びのときだけ、プラスの気持ちの時だけでなく、マイナスのことも、あなたのうちに見出し、その苦しみに似たものとなり、その痛みのうちに痛みを感じることができますように。

このLentにあなたを一層思い、あなたの下に留まり、その愛すべきみ顔から目を離すことがありませんように。

祈りとは、神に向ける単純なまなざし。心からの叫び。
IDDPで一緒のもりもりが、イスラエルに行くと聞いたとき「ロザリオを買ってきてほしい」とお願いした。

そして土曜日。IDDPの懇親会でそのロザリオを渡してもらった。

「できるだけ簡素で、できるだけ使いやすそうな感じの。デコレーションしてなくていいから。」

とお願いしたら、本当に飾らない木のビーズが紐でつないであるだけのものを買ってきてくれた。そう、本当にそういう簡素なものがほしかったのだ。そして。手に持ったら心地よい重みがあった。ビーズが大きかったからだと思う。でも、それだけではなく、何か「加わった」重み。

私が持ったことのないタイプのロザリオだったので、最初使うときに多少不安があったのだけれども、1つのMysteriesの10個の珠のつながりに多少あそびがあって、繰り易い。

本当に簡素な木の十字架。分かれるところに聖母マリアのメダイすらないほど簡素なロザリオ。ベツレヘムの生誕教会の目の前で買ってきてくれたのだと言う。

幼子イエスが生まれたベツレヘム。すべてがそこから始まった、その地。ユダの地ベツレヘム。このロザリオを繰るたびに、その幼子にしてユダヤ人の王であるあなたを礼拝しよう。そして、幼いながらにその心にすべてを納め、イエスを生み、「フィアット」を言い続けた聖母マリアのその冠にバラを1つつけることができますように。

ロザリオ。バラの花冠。この簡素なロザリオからどれだけの豊かな祈りをささげることができるだろうか。そう思いながら。

祈りのうちに。
年末に友人とのメールの中にこんなくだりがあった

「命をかけて闘わなければならないときには
  Jesusが教えてくれる。だからその時を逃しちゃだめなんだよ」

彼女の闘いもまた、イエスが与えたもの。
そしてその与え方は個々人で異なる。
彼女には主は真っ向から正面勝負で挑みかかる(らしい)。

私には「探しなさい。あなたは私を本当に求めているか。」
と、ひねくれたやり方で私を不安にさせる。
感じられない。いるのに、あなたはいるのに。
その不安。何で起きてくれないの?

まとまらないなぁ(笑)考えが。

まりのように、放っておいてもいい、つっついても投げてもいい。
私は、幼子イエスのおもちゃとして自分をささげたテレーズを思い出す。

突き破って中にあるものを見届けて、眠ってしまう幼子イエス。
遊んであげずにまりを放っておいてしまう幼子イエス。

それでもいいのだと彼女は言う。

信仰の闇が彼女を襲ったとき。
その山の中のトンネルを歩き続けているとき。
彼はいないのに、彼女は自分を導いているのは、
彼の目の光だと断言している。

…私は今、どの方向に進めばいいのか分からないけれど
私の中のあなたは眠っているけれど

でも私を導いているのはあなただと信じている。

命がけで召し出しの中の、私だけの召し出しを求める。
その闘いは、イエスによって私にもたらされる。
私の召し出しに、このVocationに愛されている!と
心のそこから叫ぶとき、あなたは私の手を再びとられる。
そして、道を示される。

命を賭けてあなたの召し出しに応え、
命を賭けてあなたを探す旅に出よう。

この短い旅の終わりが何を見出すのかを求めるのではなく
このたびの先にあなたの召し出しが、あなたの意思があることを信じて。
出逢い、というのは人に出会うということだけではなく、その人の中にその人と共に生き続けている「神」との出会いなのだと思わされる出会い。それがここ1年の間に何度かあった。

本当に出会い合うためには、commitmentを怖がっていては絶対に無理で、本当にcommitしようと思ったら、それは「正面対決」(笑)なので、本当に誰かに出会うだけではないのだと思う。

与えられた出逢い。

きっとその出逢いたちもその類だったのだと、私には今、振り返ってみて思える。

神との関わり方は人それぞれみんな違う。人とのかかわりと一緒で、千差万別。そしてそれに対する神の関わり方もまた千差万別。私たちの応え方も然り。でもどんなときでも神はどんな関わりをも通じて「出会い」を呼びかけている。誰かとの出逢いを通じてその人の中に住む、私の中に住む神と同じ「神」とのまた違う出会い。それはそして出逢ったその意味がそこにあり、招かれていて、呼ばれている。その招きに気づいて応じるかは、自分次第だろうと思うのだけれども。

私がこの1年で出会い合った人たちの中に住む神が、私に示した道は、実際のところとてつもなく。でも、その出逢いの中の招きに応えて歩き出そうと思わされる理由はとても単純で、「呼ばれたから」。聖テレーズが結んだ出逢い。そして、その十字架の下に私たちは集わされ、お互いに呼応しあって、「trust in you」、とお互いのまなざしの中に、祈りの中に共にいる。主が最高であり唯一の導き手である私たちが、共に喜びも、悲しみも神の内に喜びつつ受け入れつつ、再びまた出逢い合い、愛し合い。祈りのうちに共に手を取ってその十字架の下にとどまり尊い面影を見上げつつ、それでいながら幼子イエスをこの腕に抱き、愛しつつ。

私がいつも言い続けていることのひとつに「人生は川」だ。というのがある。これのオリジナルは、中1のスピーチコンテストで、とある小学校からの同級生がそう例えたことに始まる。でも、それがいつしか、自分の中でしっくりくるようになっていた。

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