rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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日本に再びすむようになって3ヶ月が経とうとしている。その間にいろいろと考えることがあった。それはまたおいおい。

祈り。

これを自分から取り上げられてしまったのは、とても辛かった。

祈りというのは、常に自分のそばにあるものだと思っていたし、当然のものだと思っていた。けれどアビラの大聖テレジアはこういった。

「祈りとは恵み。与えられるもの。」

その意味がまったく私には理解できなかった。

突然それが失われたことをはっきりと思い知らされた時のことは、忘れるべくもない。

あまりにも「恵み」を当たり前のものとして受け入れていたからなのだと思う。祈れる、ということは神に自分が向き合ってきているということ。主に私が向き合い、対話し合い、その愛を受け入れ、求め、そして信じ続けてきたということに他ならない。感謝してきただろうか。

祈りとは、神に向ける単純なまなざし、
その心からの叫び。

私は、主に向き合ってきただろうか。

Ahmedと話していたときのこと。

私は「集中する」ことに軽い障害がある。意志力でどうにかなる、というものではなくて、これと向き合ってようやく数ヶ月、これに気づいて10年以上になる。認めたくなかったけれど、自分の抱える問題の一部に、これがあることを、認めざるを得なくなった。今まで、自分をいすに紐で縛りつけたりしたこともある。受験期には本当にそうやってやってきたりもした。その話を彼にしたときのこと。彼は本当にぽん、といった。

「祈ろうよ」

私と彼は宗教が違う。名前で分かるだろうが彼はムスリムで、私はカトリック。けれど彼は「アラーに祈れ」とは言わなかった。「祈ろうよ」といったのだ。

「祈ろうよ。そして、謝って、支えてください、と願うんだ。」

と。彼の言わんとすることは、そのシンプルな言葉で足りた。「祈ろうよ」。そのシンプルさ故に、すとん、と私の心に落ちた。

弱さを認め、それを受け入れ、それをも含めて主に委託する。そしてそれを越える強さを願う。聖霊が私の中で自由に働くように、己を明け渡す(なるべくね(笑))。

そして、それから、私の机の上には、ロザリオが復活した。
辛いとき。目を閉じる。蝋燭を灯して、主に向かい合う。己を見つめ、ともに闘ってくださる、共に喜んでくださる方の存在を感じて、その愛を感じて。

祈り、という息吹。
弱いという恵み。
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