rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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幼子イエスの誕生という、私たちにとってとても愛すべき記念の日。クリスマスは何を祝うんだろう。そう考えていた最近、「熱愛のヨセフとマリア」という本を再び手に取った。

アドベント。待降節。私たちはその期間、何を求め、何を祈り、「待ち望む」のだろう。と。私のベリーダンスの相方が再び妊娠していることが発覚。とても、嬉しかった。それと同時に「母親」という立場にあった、「聖母」マリアを思う。私のその大事な相方の日記には「妊娠が発覚。本当に驚いた。Amazing」ということが書かれていて、最近の日記では「今日初めて鼓動を聞く。本当に小さな鼓動。何て素敵なことなんだろう」と記されている。あまり感情を思いっきり表には出さない彼女。でもその言葉少ない日記から、彼女の想いが伝わってくる。1日1日、彼女は自分の内側に宿る命を感じているのだと思うと、とてもどきどきする。

マリアもまた、私たちと同じ「人間」「被造物」であったことを思えば、彼女の驚きと、喜びとそして「待ち望む」気持ちはどんなだったのだろう。と思う。イスラエルがメシアを待ち望む気持ち。彼女もひとりのユダヤ人として、メシアを待ち望んできたはず。そしてそのユダヤ人のうちから自分、が選ばれて、母として自分の胎内に子が宿り、その子どもの誕生を待ち望む母親としての気持ち。彼女の気持ちはどんなだったのだろう。彼女は私たちよりもとても幼かったはずなのだ。

神の意志を受け入れるひとりのユダヤ人の女性としてのマリア。そして母としてイエスを愛するマリア。いずれ、不条理な形で我が子を失うことになる、十字架の下で彼女は最後に「フィアット」をつぶやく事になる。つぶやきだろうか。しっかりと顔を上げ、彼女は「はい」と、言い切ったのではないだろうか。

待降節。私たちは「ひとり子イエス」の誕生を、「メシア」を待ち望む。けれど、それだけではないのではないか。何年か前、心の中に幼子イエスを抱きしめようと、手を伸ばしたときの想いが再び湧いてくる。人として生まれ、人として生き、人として命を失ったイエス。私たちひとりひとりがマリアであり、ヨセフであり。そして、生まれてきた私たちひとりひとりが、自分の両親にとっての「かけがえのない愛情を注ぎ続ける存在」としての「イエス」であり、そしてそうやって、私たちの内側にイエスは存在しているのではないのだろうか。

心の中に、幼子イエスを抱きしめようと手を伸ばすことで、その柔らかな存在に対する無条件の愛情を、再び生まれさせる。こんなに弱い存在として私たちの前に生まれたイエスを、ただそれだけの理由で愛そうとする。マリアの母としての愛、ヨセフの父としての愛。それを再び私たちの中に芽生えさせる。それも、また、待降節の準備なのではないかと、思うのです。

「こんなにか弱く生まれたイエス」のhumbleだけを、humilityだけを取り上げるのではなく、そのイエスに向かう私たちの愛。それを再び思い起こす。愛とは「相互関係」なもの。でも、私たちからの愛がなくても私たちの父は私たちを愛し、だからこそこんな小さなhumbleな形でひとり子を送ってこられた。私たちはその父の愛を受け、それを借りて、また私たちの愛を燃やす。

私たちの中にある「愛」を、幼子イエスに向けるための期間。…待降節がそんな期間でもいいんじゃないかな、と思ったり。

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