rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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ここに来て初めて自分の非力さ、無力さをさらされる。

それであっても気が狂わんばかりのあせりが来ないのはなぜだろうか。

主よ、それは私があなたにすべてを委ねてみようと
ようやくにして思い至ったからではないのだろうか。

Ahmedの祈ろうよ、をきっかけに私の中の何かが変わっている。
祈りを失った私に、その一言が祈りを取り戻す。

すべては主に帰すものであり、
すべて良いものはあなたから出るもの。
なのにその恵みがあるときには私たちはそれに気づかず
おごり高ぶる。

だからそれが取り去られたときに非常に弱くなる。

主よ。私は今こんな状態です。
でも私は、あなたに信頼を置き、
あなたが愛する自分を信じ
あなたが私に与えてくださったこの能力を信じてみようと思います。

主よ、正直に言えばいまはとっても極限状態です。

それでもあなたは、私にこの夢を捨てるようにとはおっしゃらない。

ならば私はこの道を行くのみなのです。

私の召しだし。召命は、あなただけがご存知です。
そして日々私はこの生を生きることに召しだされています。
主よ、私を日々強め、愛してください。
あなたの愛のうちに、私は生き、
あなたの愛のうちに、私は己を燃やしましょう。

主よ、あなたに再び向かわせてくれた彼の言葉を通して
あなたは私に語られたのですね。

「私から離れるな。」と。

日々の生活に召しだされているように
あなたは確実に私を召命へと導いてくださる。
それがどんな道であれ。

苦しいときの神頼み、と人は言うでしょう。

いいぇ、主よ、それでもかまいません。
だって、私は弱いのですから。
だからあなたのところから離れてしまって
そしてまたこうして戻ってきたのですから。

私はあなたの元に戻ってきました。
わが主、わが神。
自分の小ささに打ちひしがれて、あなたの愛を請いに。

でも主よ、私は顔を上げて、雲の向こうを見つめて
また歌いましょう。
そこに大きな太陽が燃え盛っていることを信じて。

Bonum est confidere in Domino. Bonum sperare in Domino.

主よ。あなたに信頼し、あなたが愛してくださる私を信じ、
そしてあなたが良かれと思って授けてくださった、
私のこの能力を信じます。

なぜなら、そのすべては
あなたから出たものだからです。

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私の召しだしについて

「私にはやっぱり分からない。高尚すぎて、非現実的すぎて」

と言われたことがある。
それに関して、「なんでやねん」と思いすらした。

けれど。

人の召しだしもそれぞれ、神によって示された道であり、また神は理解を超えるもの。その神との対話によって人はその方の道しるべを探し出すもの。主はひとりひとりをユニークな方法で呼ばれる。私の召命が、誰かの召しだしと重なることはないように。

だから。

誰かにそれを分かってもらうのではなく、私の中にあるこの召しだしへの信頼を育てていけば良くて。

ひとそれぞれ、召しだしの方法は異なり、呼ばれ方も異なる。だから、呼ばれている方向へ迷わずに一歩踏み出すことができますように。

まだ正確に言葉になっていないけれども。

ここ数日で、「出会った」日本人のムスリマの方たちの中で何人かと言葉を交わさせていただいた。その中に、「かつてカトリックで、Missionaries of Charityに志願者として入会志願していた」とおっしゃる方にメールをいただいた。

そのメールを読みながら、根底に流れるものが同じであるということにひどく嬉しい気持ちを止められなかった。

彼女がカトリックですごしてきたから、というのが確かにあったかもしれない。けれども彼女が「アッラー」の愛を感じ、信じ、委託し、時に苦しみ、辛い思いをしているその思いは、私ととても似たものがある。いや、私だけではなくて、多くの「信仰」を持つものの中に同じものがあるに違いないと思わされた。

彼女は「知識があったことが私を妨げたのではなくて、知識があると奢っていたことが私を妨げた」と言った。それは今の私にも当てはまり、心が痛かった。

Ahmedは以前、とても「Supervise」するのが好きな人だった。私が同じことで苦しんでいたとき。彼は、「でもさ。」と始めた。私はそれに対して怒り、彼にとても憤慨し、彼が何も言えなくなるまで言葉で責め続けた。

今彼は私に「祈ろう」という。

私の中の「祈り」が甦るのを信じてくれたのだろうと思うのだけれども、同じ宗教でない人にそういうのは簡単ではない。

テレーズに導かれながら、私はロンドンで、たくさん日本にいてはなかなか出会うことのないムスリムの人にも出会い続けた。それが私に、やはり「神はひとつ」ということを思わせる。

このたくさんの出会いに感謝。そしてこれが私をさらにどこへと導いていくのか。主にお任せしてみようと思う。
日本に再びすむようになって3ヶ月が経とうとしている。その間にいろいろと考えることがあった。それはまたおいおい。

祈り。

これを自分から取り上げられてしまったのは、とても辛かった。

祈りというのは、常に自分のそばにあるものだと思っていたし、当然のものだと思っていた。けれどアビラの大聖テレジアはこういった。

「祈りとは恵み。与えられるもの。」

その意味がまったく私には理解できなかった。

突然それが失われたことをはっきりと思い知らされた時のことは、忘れるべくもない。

あまりにも「恵み」を当たり前のものとして受け入れていたからなのだと思う。祈れる、ということは神に自分が向き合ってきているということ。主に私が向き合い、対話し合い、その愛を受け入れ、求め、そして信じ続けてきたということに他ならない。感謝してきただろうか。

祈りとは、神に向ける単純なまなざし、
その心からの叫び。

私は、主に向き合ってきただろうか。

Ahmedと話していたときのこと。

私は「集中する」ことに軽い障害がある。意志力でどうにかなる、というものではなくて、これと向き合ってようやく数ヶ月、これに気づいて10年以上になる。認めたくなかったけれど、自分の抱える問題の一部に、これがあることを、認めざるを得なくなった。今まで、自分をいすに紐で縛りつけたりしたこともある。受験期には本当にそうやってやってきたりもした。その話を彼にしたときのこと。彼は本当にぽん、といった。

「祈ろうよ」

私と彼は宗教が違う。名前で分かるだろうが彼はムスリムで、私はカトリック。けれど彼は「アラーに祈れ」とは言わなかった。「祈ろうよ」といったのだ。

「祈ろうよ。そして、謝って、支えてください、と願うんだ。」

と。彼の言わんとすることは、そのシンプルな言葉で足りた。「祈ろうよ」。そのシンプルさ故に、すとん、と私の心に落ちた。

弱さを認め、それを受け入れ、それをも含めて主に委託する。そしてそれを越える強さを願う。聖霊が私の中で自由に働くように、己を明け渡す(なるべくね(笑))。

そして、それから、私の机の上には、ロザリオが復活した。
辛いとき。目を閉じる。蝋燭を灯して、主に向かい合う。己を見つめ、ともに闘ってくださる、共に喜んでくださる方の存在を感じて、その愛を感じて。

祈り、という息吹。
弱いという恵み。
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