rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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姉と久々にメッセで話をしていた時、どうやって自分を奮い立たせるのか、という話をしていた時。彼女が発した言葉が

「Live only for today!」

だった。

それは奇しくも、

Rien que pour aujourd'hui

このブログのタイトルになっているテレーズの言葉に一致する。
「今日のためだけに」

という彼女の言葉と一致する。

私が忘れていた彼女の言葉を、私が愛する姉という
とても近い人の言葉に乗せて彼女は私に伝えてくれた。

もう一度。あなたが私の側にいることを、
あなたのところに行かなくなった私に
こんな形であなたは教えてくれるのだ。

主よ感謝します。
この恵みに。そしてそれを見分ける力を、
こんなに弱った私にお与えくださったあなたの愛に。

テレーズは言ったに違いない
「私は、今彼女に助けを与えたいのです。
  でも、彼女は今とても弱っていて、私の言葉を聞き分ける力が
  きっとないと思うのです。あんなに揺れているのですから。
  
 だけれども、あなたなら、
   私がお願いすることを叶えてくださいますよね。
 
 私は彼女に声をかけたいのです。
   彼女が聞こえるようにしてください」

テレーズ、確かにあなたの声を聞きました。

あなたの「肉声」は聴いたことがないけれど
これは確かにあなたの声でしょう?

私はこんなにも惨めだと言うのに、
あなたは私にもう一度立ち上がれという。
私はこんなに情けないのに
あなたは私に声をかけ、ついてくるようにと言う。
力を振り絞れと言う。

今まで一度もそんなことをしたことがなかった私に。

卒論の時ですら、あなたは私に声をかけなかった。一度も。

なのに今。こんなに声をかけられても動けないのに
あなたは私を見捨てない。
あなたが私を信じてくれている。
こんな私にあなたはまだ声をかける。
「ついてきなさい。立ちなさい。」

テレーズ、あなたはまだ私を引っ張ろうとする

まだ私を信じてくれている。
そして私に、愛していると声をかける。
「私の後に続きなさい」と。

ならば、もうひとつ願っていいですか。

あなたの後に続くことのできる力をください。
あなたの後に続きたいから。

「選び取ったものには、選んだ責任がある」

あの彼の言葉を思い出す。

祈ろう。この恵みが私の糧となるように。
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節目節目に、目に見える形で、St. Therese de l'enfant Jesusが現れる。

Sayakaを連れて一緒に行ったTaize Massの、Notre Damme de Paris (in London)。あの時、あそこに「行かなければいけない」と、何かが強く働いた。あそこに入った時。彼女は聖堂に向かって後ろの左側にいた。いつも、Farm St. Churchで、いる場所に。

信じられないけれど、あの時点で私が、いっぱいいっぱいで辛かった私が、彼女が私のところに駆け込んでくるのを受け入れているキャパシティがあったこと。私ひとりの力では、できなかった彼女に対する姿勢、彼女だけではなくて、あの時に数人の友達が、あの状態の私のところに「助けて」というSOSを求めて来ていたこと。そして、私が、考えることもなく私にしてはありえないくらいに「適切な」手伝いができていたこと。

あの時に、その瞬間に私の「試練」に光が与えられた。あの日の朗読はヨブ記。

ミサを受けながら、Notre Dammeの像を見上げた。風の中、地球の上に立っている幼子イエスを支えている母マリアの像。

そして、つい最近、自分の家の近くに、Catholic Churchがあることを知った。St. Anselms and St. Cecilia教会。近いから、Green Parkまで行く必要がない、と思いながらも、テレーズに会いにいけないのではないか、と内心残念に思っていた。

近いほど遅刻する、遠くても遅刻する私(汗)ミサに与り、約束の時間にまだ時間があるから、と暫くそこで祈ってから、ふと後ろを見る。

…彼女がそこにいた。

「バラの雨」を降らせながらそこにいた。



驚いた。


やっぱり聖堂から向かって左側に。あなたはそこにいた。そして、Farm St. Churchで会うあなたは、高い台の上に立って、私はあなたの足に触れることしかできなかった。けれど、あの教会では、私はあなたを抱きしめることができる!

いつでも、私の行くところにはどこにでも、あなたがいる。それを、こんなに身を持って感じたことはない。あの本当に苦しかった日に、あなたが私の上にバラの雨を降らせて以来、あなたは私に約束したとおりにいつでも共にいてくださる。私を力づけるために。

そして。


その教会にあった聖母は、ルルドでもファティマでもなく、Notre Dammeだった。

あなたは私があなたの助けを必要とするだろうという状況に陥る時、必ずその前に現れて、「何があっても恐れることはないのですよ、私の道についていらっしゃい」と、私を先導する。だから変化が怖くない。…もっとも抗う暇もなく引っ張られていくのだけれども。でも、その変化が望まれた変化であるとき、あなたは私を導く。

どんなに頑張っても私は自分自身でできなかったことを、あなたはたったそれだけで可能にする。Jesus,あなたは私がそれに戸惑い、それに恐れることを知っているからこそ彼女を必ず私のところに来させてくださる。私がどんなに頑張っても自分の中に起こせなかった変化を、あなたはたった1瞬で可能にする。

主よ、感謝します。こうして私に道を示し、こうして私を引き寄せ、こうして私に微笑をあたえ、導いてくださるあなたに。

何かのためでなく。今、私を生かすのは、あなたと共にあるこの時間。彼女の試練を私のものとし、少しずつ、少しずつ与えてくださるあなたに。私は私という存在でUniqueでありながら、この道を生きていることに。

テレーズ、あなたが私と共にいる。それはなんと大きな慰めでしょうか。
灰の水曜日。今日からLentが始まる。

Good Fridayに合わせてNovenaを始めて10日あまり。待ち望んでいたLent。私はこの時期の黙想がとても好き。

主の苦しみに同化したい。主が受けた辱めを、共に忍びたい。その十字架のもとに留まって、その傷から滴るおん血の一滴も地に落とすのではなく、この手に受け止めて、飲ませたい。

その苦しみを耐えた愛。そして他の人のように、ゲツセマネで苦しみながら、最後に「フィアット」を仰ったその信頼。従順じゃなくて、信頼。それが「必要なのだ」と、ご存知だったからこそ、the death freely accepted。

アビラの聖テレジアは、その著書の中で言う。「その時代に生きていたならば、私もあの方のみ顔から、目をそむけなかっただろう、などと言わないでください。今でもあなたを愛情のまなざしでずっと見ていらっしゃる方に目を注がずに、他のものに目を注ぎ、ちらりと彼のみ顔を見ることもなさらない方が、どうしてその時代に、マグダレナと共に十字架のおんもとに留まろうなどとなさるでしょうか。」と。

できるだけ度々、そのおん方の方に、目線を向けなさい、と彼女は言う。そしてその愛のまなざしに気づきなさい、と。

主よ、あなたの愛のまなざしのうちの留まり、あなたの愛を借りて愛することができますように。できるならば、喜びのときだけ、プラスの気持ちの時だけでなく、マイナスのことも、あなたのうちに見出し、その苦しみに似たものとなり、その痛みのうちに痛みを感じることができますように。

このLentにあなたを一層思い、あなたの下に留まり、その愛すべきみ顔から目を離すことがありませんように。

祈りとは、神に向ける単純なまなざし。心からの叫び。
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