rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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IDDPで一緒のもりもりが、イスラエルに行くと聞いたとき「ロザリオを買ってきてほしい」とお願いした。

そして土曜日。IDDPの懇親会でそのロザリオを渡してもらった。

「できるだけ簡素で、できるだけ使いやすそうな感じの。デコレーションしてなくていいから。」

とお願いしたら、本当に飾らない木のビーズが紐でつないであるだけのものを買ってきてくれた。そう、本当にそういう簡素なものがほしかったのだ。そして。手に持ったら心地よい重みがあった。ビーズが大きかったからだと思う。でも、それだけではなく、何か「加わった」重み。

私が持ったことのないタイプのロザリオだったので、最初使うときに多少不安があったのだけれども、1つのMysteriesの10個の珠のつながりに多少あそびがあって、繰り易い。

本当に簡素な木の十字架。分かれるところに聖母マリアのメダイすらないほど簡素なロザリオ。ベツレヘムの生誕教会の目の前で買ってきてくれたのだと言う。

幼子イエスが生まれたベツレヘム。すべてがそこから始まった、その地。ユダの地ベツレヘム。このロザリオを繰るたびに、その幼子にしてユダヤ人の王であるあなたを礼拝しよう。そして、幼いながらにその心にすべてを納め、イエスを生み、「フィアット」を言い続けた聖母マリアのその冠にバラを1つつけることができますように。

ロザリオ。バラの花冠。この簡素なロザリオからどれだけの豊かな祈りをささげることができるだろうか。そう思いながら。

祈りのうちに。
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先だって、FlorenceとUniversity Chaplineに連れて行ってもらってNewman Houseの主日ミサに出てきた。

普段行くFarm St. Churchのミサとは大分違って、ウェストミンスター大司教区管轄の学生寮にあるチャペルでのミサ。大きさはマリア中聖堂の半分くらい。かな。大体ザビエル聖堂くらい。(汗;すでに人をexcludeしている書き方だ)

そこにたくさんの学生たちが集まっている。

寮に住んでいる人、周りに住んでいる人。とてもいい雰囲気だった。入ったときにはすでにグロリアだったのだけれども、とてもいい歌で、みんなが楽しげに歌っている。私とFlorenceは後ろの方に席を取って、参加した。ひとつひとつの歌や学生の参加の度合いが、やっぱり私が普段いっている教会とは大分違う。初めての参加で緊張する辺りやっぱり人見知りが抜けないとは言え(笑)

Sign of Peaceを交わすときに、Florenceと「Peace be with you」とハグを交わし、周りと握手を交わす。Farm St. Churchではありえないくらいたくさんの人と、握手を交わした。そしてそのたびに、笑顔をかわした。向こう隣の人、向こう向こう隣の人、後ろを向いて、前のほうの人と。

なんだか終わってからYGTを思い出した。ああ、みんなに会いたいなぁ。何だか涙が出てきて、拝領の歌の最中ずっとひざをついて祈りながらずっと思い出していた。懐かしすぎて(笑)

ああ、みんなに会いたいなぁ。
少し前の朗読箇所だけれども。

私が理由もなく(いやそんなことはないのだけれど)落ち込んでいたときの朗読箇所。

サムエル記上15:16-23の箇所の中に
(サムエルは言った)「あなたは自分自身の目には取るに足らぬものと映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いであなたをイスラエルの上に王とされたのだ。・・・」という箇所があった。

「自分自身は取るに足りないものだ」という気持ちは「謙遜」だけれども、そこに「神への信頼」、神が自分を選んだと言う委託の謙遜ではなくそれは「偽りの謙遜」だったのだろうか。「神が自分を選んだ」ことに対する、神への信頼。謙遜>神の選択への委託 は、時として神の意志を汲み取る目を曇らせる。感謝<謙遜ということなのだろうか。

「こんな私に神は目を留められた」という感謝ではなく、「神が目を留めてくださったが私は取るに足らないものだ」という気持ち。それがサウルの目を曇らせたのだろうか。

私にとってぐっさりと来たのは

「主が喜ばれるのは焼き尽くすささげものやいけにえであろうか。むしろ主の御声に聞き従うことではないか。」

というくだり。自ら進んでおきての通りにいけにえを捧げることよりも、主はむしろそのみ声を聞き分けることを喜ばれる。だからこそ例えば修道者となったりすることは、自発的に、自分のために、ではなくそこに「召しだしが在るか」ということをとても重視されるのだろうと思う。

その同じ日のアレルヤ唱には
「神の言葉は生きていて力があり、心の思いと計画をわきまえる」
とある。
心の思いと計画をわきまえること。それはすなわち、み旨を聞き分けると言うことなのではないだろうか。

新しい皮袋には新しいぶどう酒を入れるものだ。
だから人それぞれに神は「新しい計画」をなされる。
そうしなければ、その革袋は破れ、ぶどう酒はだめになる。

神に感謝。
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