rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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Ma vocation, c’est lamoureux. -Sainte Therese de l’enfant Jesus-

今こそ、「命がけ」で「愛になる」ということをあなたは、出逢いの中にいるあなたを通じて私に教えられる。そして、テレーズの召し出しに私をも召し出される。

私の中のあなたは眠っておられるのに、あなたはこうして私に呼びかけ、こうして招かれる。そしてその「出来事」としての呼びかけが、私にさらにアンテナをsensitiveにするhumbleさを与える。

今だからこそ。

私の中であなたが眠っておられる今だからこそ、あなたはそうして私に働きかけ、そうして私に求めて来られる。この豊かにされた流れ、このflow。それによって私はさらに受け、さらに与え、そしてあなたを見つめる。

どんなことも、愛がなければ空しい。

であれば。
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召しだしに応え、この召命を選び取って10年近く。信仰の道も、そして歩む道も、この召し出しに応えて道しるべに沿ってこうして歩いてきた。ここに来て主は、私に「渇き」を与えられる。

「イエス様は、私の小船の中で眠ってしまって、お起きになられません」。

…テレーズに倣い、私にも主を求め、探すように、主は仰せになる。私がテレーズの娘であればこそ彼女に対するのと同じ試練、同じ渇きをおあたえになる。この召し出しに私が応えるのかどうか。私がこの試練をあなたを求めてあなたの十字架の下に留まり続けるのか、あなたは私にお尋ねになる。

あなたは私の小船の中で、深く深く眠られて、お呼びしてもお応えにならない。

でも私はあなたが私の小船の中に「居られる」のを知っている。そして。私がテレーズの娘であればこそ、同じ渇きを、同じ想いを私におあたえになるのだということも。テレーズ、私は再び召し出しに応えます。

この渇きはなんという喜び。
私の霊的母、幼いイエスと尊い面影の聖テレーズの言葉。

これを思い出したのは、とある1本の電話が私を励ましてくれたとき。
「Darling, I think am not praying these days… I’ve felt so guilty about that, you know」
という私に応えて、
「Well, but you know, when you think about prayer, when you remember Him, when you remember you haven’t prayed, it is already a prayer….」
と、いう言葉がぽん、と投げてこられたとき。

心の中に、波紋が広がりました。

心の中で主を見上げるとき。それはすでに祈りで、叫びで、呼びかけで。それに思い至ったときに

「祈りとは、神に向ける単純なまなざし、心からの叫び」

という言葉が思い浮かんできたのです。

テレーズ、あなたはどんなとき、どんなところでも私を導かれるのですね。
出逢い、というのは人に出会うということだけではなく、その人の中にその人と共に生き続けている「神」との出会いなのだと思わされる出会い。それがここ1年の間に何度かあった。

本当に出会い合うためには、commitmentを怖がっていては絶対に無理で、本当にcommitしようと思ったら、それは「正面対決」(笑)なので、本当に誰かに出会うだけではないのだと思う。

与えられた出逢い。

きっとその出逢いたちもその類だったのだと、私には今、振り返ってみて思える。

神との関わり方は人それぞれみんな違う。人とのかかわりと一緒で、千差万別。そしてそれに対する神の関わり方もまた千差万別。私たちの応え方も然り。でもどんなときでも神はどんな関わりをも通じて「出会い」を呼びかけている。誰かとの出逢いを通じてその人の中に住む、私の中に住む神と同じ「神」とのまた違う出会い。それはそして出逢ったその意味がそこにあり、招かれていて、呼ばれている。その招きに気づいて応じるかは、自分次第だろうと思うのだけれども。

私がこの1年で出会い合った人たちの中に住む神が、私に示した道は、実際のところとてつもなく。でも、その出逢いの中の招きに応えて歩き出そうと思わされる理由はとても単純で、「呼ばれたから」。聖テレーズが結んだ出逢い。そして、その十字架の下に私たちは集わされ、お互いに呼応しあって、「trust in you」、とお互いのまなざしの中に、祈りの中に共にいる。主が最高であり唯一の導き手である私たちが、共に喜びも、悲しみも神の内に喜びつつ受け入れつつ、再びまた出逢い合い、愛し合い。祈りのうちに共に手を取ってその十字架の下にとどまり尊い面影を見上げつつ、それでいながら幼子イエスをこの腕に抱き、愛しつつ。

私がいつも言い続けていることのひとつに「人生は川」だ。というのがある。これのオリジナルは、中1のスピーチコンテストで、とある小学校からの同級生がそう例えたことに始まる。でも、それがいつしか、自分の中でしっくりくるようになっていた。

幼子イエスの誕生という、私たちにとってとても愛すべき記念の日。クリスマスは何を祝うんだろう。そう考えていた最近、「熱愛のヨセフとマリア」という本を再び手に取った。

アドベント。待降節。私たちはその期間、何を求め、何を祈り、「待ち望む」のだろう。と。私のベリーダンスの相方が再び妊娠していることが発覚。とても、嬉しかった。それと同時に「母親」という立場にあった、「聖母」マリアを思う。私のその大事な相方の日記には「妊娠が発覚。本当に驚いた。Amazing」ということが書かれていて、最近の日記では「今日初めて鼓動を聞く。本当に小さな鼓動。何て素敵なことなんだろう」と記されている。あまり感情を思いっきり表には出さない彼女。でもその言葉少ない日記から、彼女の想いが伝わってくる。1日1日、彼女は自分の内側に宿る命を感じているのだと思うと、とてもどきどきする。

マリアもまた、私たちと同じ「人間」「被造物」であったことを思えば、彼女の驚きと、喜びとそして「待ち望む」気持ちはどんなだったのだろう。と思う。イスラエルがメシアを待ち望む気持ち。彼女もひとりのユダヤ人として、メシアを待ち望んできたはず。そしてそのユダヤ人のうちから自分、が選ばれて、母として自分の胎内に子が宿り、その子どもの誕生を待ち望む母親としての気持ち。彼女の気持ちはどんなだったのだろう。彼女は私たちよりもとても幼かったはずなのだ。

神の意志を受け入れるひとりのユダヤ人の女性としてのマリア。そして母としてイエスを愛するマリア。いずれ、不条理な形で我が子を失うことになる、十字架の下で彼女は最後に「フィアット」をつぶやく事になる。つぶやきだろうか。しっかりと顔を上げ、彼女は「はい」と、言い切ったのではないだろうか。

待降節。私たちは「ひとり子イエス」の誕生を、「メシア」を待ち望む。けれど、それだけではないのではないか。何年か前、心の中に幼子イエスを抱きしめようと、手を伸ばしたときの想いが再び湧いてくる。人として生まれ、人として生き、人として命を失ったイエス。私たちひとりひとりがマリアであり、ヨセフであり。そして、生まれてきた私たちひとりひとりが、自分の両親にとっての「かけがえのない愛情を注ぎ続ける存在」としての「イエス」であり、そしてそうやって、私たちの内側にイエスは存在しているのではないのだろうか。

心の中に、幼子イエスを抱きしめようと手を伸ばすことで、その柔らかな存在に対する無条件の愛情を、再び生まれさせる。こんなに弱い存在として私たちの前に生まれたイエスを、ただそれだけの理由で愛そうとする。マリアの母としての愛、ヨセフの父としての愛。それを再び私たちの中に芽生えさせる。それも、また、待降節の準備なのではないかと、思うのです。

「こんなにか弱く生まれたイエス」のhumbleだけを、humilityだけを取り上げるのではなく、そのイエスに向かう私たちの愛。それを再び思い起こす。愛とは「相互関係」なもの。でも、私たちからの愛がなくても私たちの父は私たちを愛し、だからこそこんな小さなhumbleな形でひとり子を送ってこられた。私たちはその父の愛を受け、それを借りて、また私たちの愛を燃やす。

私たちの中にある「愛」を、幼子イエスに向けるための期間。…待降節がそんな期間でもいいんじゃないかな、と思ったり。

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