rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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主よ、あなたが私を準備されているのを感じます。
私を一時ごとに新たにし、私の心をあなたに向けさせ、
あなたへの熱望をかきたてる。

あなたの閉じた目からあふれる愛のまなざしが、私を生かし
私の心の炎を燃え立たせる。
イエス、私の浄配、私はたとえあなたの花嫁にならずとも、
あなたの愛をまとって、あなたの愛になりたい。
あなたの炎に身を焦がして、光となりたい。

あなたを愛します。
あなたがあなたであるがゆえに。
だから、私をあなたのもとに引き寄せてください。

あなたの愛が、私の心を新たにし、清めてくださるのを感じます。
見えない私の眼をいとおしみ、聞こえない私の耳をいたわり、
あなたはその日、私の眼を開かれる日のために、
私の耳を通すその日のために、
私をあなたの燃えるかまどに投げ入れるその日のために、用意されるのです。

イエス、共にいてください。
あなたに渡された私の十字架を背負うために、私は足を踏み出します。

あなたを愛します。
あなたを教えてください。もっと、私にあなたを教えてください。

イエス、私の愛する方、あなたと共に在って、私は満たされる。
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私の愛する人の兵役期間が決まった。

危惧していた通り、専門官として3年間服役することになったらしい。まだ最終通知は来ていない。非常に辛かった。

その日、彼のところに私の送ったシブハ(イスラームのロザリオのようなもの)が届いた。同じ石で私はロザリオを作って持っている。身近において、祈るときに相手と共に神に向かう。私が祈るときは彼も祈っている。彼が祈るときには、私の心もそこにいる。

3年間は長い。

神様がそう望まれたから。彼に3年の兵役期間が必要だと、望まれたから。すべては主のみ心のままに。私たちは、祈りながらも、神にすべてを委ねて来た。裏工作もせず、主のみ心が行われるように祈りながら。だから、それを受け入れようと、今はその「受け入れることができますように」と祈ること。私も、彼も、今はその心を準備してください、と祈る。

離れていることに変わりはないけれども、兵役に行くのと、普通に暮らしているのでは違う。

でも、私たちは、共にたくさんのことを、祈りとともに乗り越えてきた。主が望まれるならどんな高い山にでも登ろうと。今私たちの間には、同じシブハとロザリオがある。祈るとき、私たちはひとつになる。神に向かうその姿勢で、私たちは共にある。

主に感謝。

すべてのことがみ心どおりに成りますように。
地を這っていたと思っていたのに、いつの間にか。

というテレーズの言葉を思い出す。
今日、アフガンに行くことを思いながら、ロザリオをしていた。迷いがあった。私にいかれるのか。何かできるのか。ひとつひとつ、先唱をしていく時に祈り続けた。

瞬間に何かが変わった。

「これでいいのだ」と。確信に変わった。

主が私に用意した道を私は歩いている、と確かに感じられた。そのえも言われぬ感覚は、私にとって言葉にするにはあまりに美しい瞬間だった。なぜ、聖母があんなに美しく見えたのか、私には分からない。

ひとつひとつのできごとが、「ラッキーだったね」といわれる。でも、精神的に、私の霊魂が飢えていたことは疑いようがない。

口を慎もう。昨日と今日は、本当にそう思う。

テレーズ、私を助けてください。私がどんな苦しみにも負けず、あなたの後につづくように。

カルメルの祈りと、カリタスの活動を併せ持った、あなたの娘であれるよう。
私の召しだしについて

「私にはやっぱり分からない。高尚すぎて、非現実的すぎて」

と言われたことがある。
それに関して、「なんでやねん」と思いすらした。

けれど。

人の召しだしもそれぞれ、神によって示された道であり、また神は理解を超えるもの。その神との対話によって人はその方の道しるべを探し出すもの。主はひとりひとりをユニークな方法で呼ばれる。私の召命が、誰かの召しだしと重なることはないように。

だから。

誰かにそれを分かってもらうのではなく、私の中にあるこの召しだしへの信頼を育てていけば良くて。

ひとそれぞれ、召しだしの方法は異なり、呼ばれ方も異なる。だから、呼ばれている方向へ迷わずに一歩踏み出すことができますように。

まだ正確に言葉になっていないけれども。

ここ数日で、「出会った」日本人のムスリマの方たちの中で何人かと言葉を交わさせていただいた。その中に、「かつてカトリックで、Missionaries of Charityに志願者として入会志願していた」とおっしゃる方にメールをいただいた。

そのメールを読みながら、根底に流れるものが同じであるということにひどく嬉しい気持ちを止められなかった。

彼女がカトリックですごしてきたから、というのが確かにあったかもしれない。けれども彼女が「アッラー」の愛を感じ、信じ、委託し、時に苦しみ、辛い思いをしているその思いは、私ととても似たものがある。いや、私だけではなくて、多くの「信仰」を持つものの中に同じものがあるに違いないと思わされた。

彼女は「知識があったことが私を妨げたのではなくて、知識があると奢っていたことが私を妨げた」と言った。それは今の私にも当てはまり、心が痛かった。

Ahmedは以前、とても「Supervise」するのが好きな人だった。私が同じことで苦しんでいたとき。彼は、「でもさ。」と始めた。私はそれに対して怒り、彼にとても憤慨し、彼が何も言えなくなるまで言葉で責め続けた。

今彼は私に「祈ろう」という。

私の中の「祈り」が甦るのを信じてくれたのだろうと思うのだけれども、同じ宗教でない人にそういうのは簡単ではない。

テレーズに導かれながら、私はロンドンで、たくさん日本にいてはなかなか出会うことのないムスリムの人にも出会い続けた。それが私に、やはり「神はひとつ」ということを思わせる。

このたくさんの出会いに感謝。そしてこれが私をさらにどこへと導いていくのか。主にお任せしてみようと思う。
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