rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

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少し前の朗読箇所だけれども。

私が理由もなく(いやそんなことはないのだけれど)落ち込んでいたときの朗読箇所。

サムエル記上15:16-23の箇所の中に
(サムエルは言った)「あなたは自分自身の目には取るに足らぬものと映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いであなたをイスラエルの上に王とされたのだ。・・・」という箇所があった。

「自分自身は取るに足りないものだ」という気持ちは「謙遜」だけれども、そこに「神への信頼」、神が自分を選んだと言う委託の謙遜ではなくそれは「偽りの謙遜」だったのだろうか。「神が自分を選んだ」ことに対する、神への信頼。謙遜>神の選択への委託 は、時として神の意志を汲み取る目を曇らせる。感謝<謙遜ということなのだろうか。

「こんな私に神は目を留められた」という感謝ではなく、「神が目を留めてくださったが私は取るに足らないものだ」という気持ち。それがサウルの目を曇らせたのだろうか。

私にとってぐっさりと来たのは

「主が喜ばれるのは焼き尽くすささげものやいけにえであろうか。むしろ主の御声に聞き従うことではないか。」

というくだり。自ら進んでおきての通りにいけにえを捧げることよりも、主はむしろそのみ声を聞き分けることを喜ばれる。だからこそ例えば修道者となったりすることは、自発的に、自分のために、ではなくそこに「召しだしが在るか」ということをとても重視されるのだろうと思う。

その同じ日のアレルヤ唱には
「神の言葉は生きていて力があり、心の思いと計画をわきまえる」
とある。
心の思いと計画をわきまえること。それはすなわち、み旨を聞き分けると言うことなのではないだろうか。

新しい皮袋には新しいぶどう酒を入れるものだ。
だから人それぞれに神は「新しい計画」をなされる。
そうしなければ、その革袋は破れ、ぶどう酒はだめになる。

神に感謝。
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今日の朗読箇所じゃなかったけれども。

第1朗読だったので、使徒パウロの手紙だったと思う。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
み子を遣わされた。ここに愛がある。神は愛なり」

カリタスの黙想会に初めて行ったとき(ってことはだいぶ前だ)、
ここをもとにした賛美歌を知り、思いっきりstruckだった。

「ひとりごを遣わし神は私たちに
命を得させてくださいました。
私たちが神を 愛したのではなく
神が私たちを愛し、 み子を遣わされた
ここに愛がある 神の愛が示された
ここに愛がある 神は愛なり」

この歌から思い巡らせることはとても多いけれども。
今日の朗読のところで、イエスを通じては
「然り」が実現し、「否」はない。という記述があった。
神様はすべての契約、すべての約束において「然り」な方で、
私たちのように「否」という可能性はない、と仰る。

私たちの約束は「絶対」ではない
どんなに「絶対」といおうと、私たちは弱い人間だから。
でも、神様の約束には「然り」しかない。
どんなに遠回りをしても、
どんなに苦しいことが起ころうとも。
神様の約束に「然り」しかない。

だから、例え何が起ころうとも
私たちを励まされる。

それは神様が私たちを愛しているから。
だから、その約束を、神様は
ひとり子をお遣わしになり、イエス様を通して
私たちの罪を贖うという形で新しい契約を完成させられた。
もっとも大きな約束をそうして果たされた。

だからこそ。
神様を信じて。
私たちの望みが、神様のみ心にかなっていることを祈って。
今日の第1朗読はシラ書。

立ち帰ろうとするものに、神は道を開かれる。

という、新約でいうところの放蕩息子に通じる部分があった。
…正直な話、涙が出そうだった。

私はいつも、どこかでだめになる。
どこかで自分に甘くなる。最後の最後で頑張りきれない。

とか言って、今だって論文やらないでこれ書いてるけど

聖三位一体の祝日の昨日、お説教で神父さんが
「私は、なぜ聖三位一体の祝日を、復活節にやらないのかと思うのです。なぜ、Ordinal Yearにするのかと思ったのです。でも、良く考えてみたら、それはとても正しいことのように思います。なぜならば、聖霊降臨(ペンテコスタ)の後、聖三位を賛美することで、新しい日々を始めるために、復活節の後に来ているのだと、思い立ったからです」と仰った。

なるほど。

だったなら、私も今週から、新しい私を始めよう。
そう思って、今日から頑張ろうと思い始めたからだ。

朝の祈りに、毎日のミサを開き、一日の奉献をして、第1朗読をふと読み始めたとたんに。立ち帰るひとへの主の愛が、溢れていた。

ああ、神様は待っていたんだ。

そう思ったとたんに、とても嬉しかった。
神様はこうやって、私が帰ってくることを励まされる。
何度も、何度もこうして、帰ってくることを励まされる。
何度離れても、何度帰ってきても。
そして、「おかえり」と何度でも迎えてくださる。

鷲の雛のように。
例え私の信仰が曇っても、
その雲の向こうには、大きな太陽が輝いている。
それを私は、知っている。

主に感謝。あなたはいつも、私を引き寄せ抱きしめて、
このままの私を愛してくださる。
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