rien que pour aujourd' hui

今日という一日、命を与えられた恵みに感謝して、ただ今日を一生懸命に。

過去の記事を読み返していて、

過去に願ったことが今、こうしてここにあることに驚かされる。
内的殉教。テレーズに続くための道。
そして、祈りへと向かう道。

祈りという息吹。
弱さという恵み。

主よ、あなたが私を導いてこなければ、
私はきっと小さな悪魔になっていたことでしょう。

ああ、今こそ私は私の内側を埋め尽くす、
あなたが私を呼ばれたという確信を強くするのです。

今までにないこの確信。
人の力で得ることのできない力。
私を突き動かす雷。

今こそ、私は「私」をあなたに明け渡します。
テレーズ、あなたと同じ苦しみを味わうことに感謝できますように。

神様は、洗礼を授けるという確信を私に与えながら、
ここまできて取り去ろうとされている。
信頼して心を開いて、お願いしていた神父様は今は背を向け、頑なになされる。
私は、私のことを知らない神父様に再び勇気を奮い起して、
私のことを話さなければならない。

どんな反対があったのか。
何をくぐりぬけて、何を頂いてきたのか。

そして、去年のイースターにいただいた、あの本当に雷のようにはっきりと、
一瞬にして閃いた、あの呼びかけ、確信。
「あなたに洗礼を授ける」という。

ショックだった。
突然放り出されてしまって、突然、拒絶されてしまったのだから。

けれど、ゆっくりあなたの人生を思い出してみる。

レヴェロニー神父様にNoと言われたこと。
お恵みを頂いたクリスマスにはカルメルに入っていると思っていたのに、
あなたはまだこの島流しの地にいたこと。教皇様にまで、お願いに行ったこと。

私があなたの娘ならば。
あなたは夢の中で、私をあなたの道へと導かれた。
これもきっと、そういうことなのに違いないから。


そう思うと、なーんだ。と思う。

ほんの少しの勇気。
ロザリオ1環。その15分。15分×6年分?
人生の中のたったそれだけの時間、
果てしない時間の中で私を愛してくださる大事な方に
差し上げる愛が、私にないのかと。

アブラハムがイサクを奉げた時、
彼は神様が「その気持ちで満足されるだろう」という期待は
持っていなかったに違いない。
心から、イサクを神様に差し上げる気持だったに違いない。
…私に、その心を、どうかテレーズ、与えてください。

ひとつでも多くの薔薇の花冠を編むことができますように。
バランスというものがまったく見えない、ぎりぎりの精神状態でこの1ヶ月過ごしています。

でもね。

ミサで、涙が出るようなエネルギーチャージをしてもらい、1週間また前に行く。そして、エネルギーを最後の方はぎりぎりになって頑張って、またミサに行く。

私の察したことは本当に当たっていた。

神様は、私から、私の周りの救いをひとつずつ確実に取り上げていかれる。私が今まで、わかっていた事を本当に理解させるために。本当に、その度に痛い思いをします。expected pain.

Cuz I already knew that he would make me be disappointed, but how can I not hope? Maybe the place or person or things I put my hope on would be absolutely different.... - I knew it anyway.

ひとつひとつ剥ぎ取られていきます。

それに、苦しみながらではなく、苦しむように ではなく「はい」と答えられたら良いのですが。

God let me do what you want.

笑顔で、この試練を乗り切ることができますよう。
私の愛する人の兵役期間が決まった。

危惧していた通り、専門官として3年間服役することになったらしい。まだ最終通知は来ていない。非常に辛かった。

その日、彼のところに私の送ったシブハ(イスラームのロザリオのようなもの)が届いた。同じ石で私はロザリオを作って持っている。身近において、祈るときに相手と共に神に向かう。私が祈るときは彼も祈っている。彼が祈るときには、私の心もそこにいる。

3年間は長い。

神様がそう望まれたから。彼に3年の兵役期間が必要だと、望まれたから。すべては主のみ心のままに。私たちは、祈りながらも、神にすべてを委ねて来た。裏工作もせず、主のみ心が行われるように祈りながら。だから、それを受け入れようと、今はその「受け入れることができますように」と祈ること。私も、彼も、今はその心を準備してください、と祈る。

離れていることに変わりはないけれども、兵役に行くのと、普通に暮らしているのでは違う。

でも、私たちは、共にたくさんのことを、祈りとともに乗り越えてきた。主が望まれるならどんな高い山にでも登ろうと。今私たちの間には、同じシブハとロザリオがある。祈るとき、私たちはひとつになる。神に向かうその姿勢で、私たちは共にある。

主に感謝。

すべてのことがみ心どおりに成りますように。
クリスマス、主イエス、幼子としてこの世にもっとも弱い姿でお生まれになった私たちの大事な方。その方を心に抱いて祈りを捧げ続けた。

待降節、ロザリオに出ながらあるとき突然、光が差した。「私がやっていることはみ旨に適っているだろうか。ただの自己満足になっていないだろうか。」そう思いながら毎日を過ごしていた時に、何かが心を打った。そしてこの迷いが「これでいいのだ」という確信に変わった。

そこで何があっても、きっとそれは神のみ旨に適っている。

そう、思えるようになった。それが、神様から私へのクリスマスプレゼントなのだと。「あなたは私の心に適った道を通っている」という。分からなくなったら、また祈り続けよう。